しかし、この話ってなぜか定期的に問題になりますよね~と思うところであります。今回もとある有名な人のblog記事で学校の算数においての交換法則で×にされることについてかなりひどく言っていたので数学側の関連と絡めて考察してみたいと思います。先に数学側から考察するので算数側は後から出てきます。
数学における乗算・加算の交換法則について
いろいろな記事を読んでいるとどうも数学において乗算(と呼ばれる演算)や加算(と呼ばれる演算)は常に交換法則が成り立つ、と勘違いしている人がかなり多いようですが、まずこれから修正します。この認識は誤りです。つまり、数学において乗算(と呼ばれる演算)や加算(と呼ばれる演算)で常に交換法則が成り立つ訳ではありません。これはまあ仕方のないことで、高校生までで学習する数学において乗算や加算は交換法則が成り立つ範囲までしか学習しないというのがほとんどですからね…。
典型的な例としては数Cで学習する行列の演算です。行列の演算において加算はまだ交換法則が成り立ちますが乗算においては交換法則が成り立たないどころか対象の行列によっては演算対象を入れ替えると演算そのものが定義できない、といった現象に陥ります。詳しく説明するのは面倒なので行列については調べてみるといいと思います。行列が普通の数でないから意味がない、と言い張る人であれば四元数における乗算が例となります。複素数までであれば乗算で交換法則が成り立つのですが…。
さらに言うなら大学レベルまで行けば「演算」について一般化を行ったものとして代数学という数学の一分野で群(group)を学びますが、この群において交換法則(可換性)は定義に入っていません。可換性が成り立つ群としては別に「アーベル群」という名称があるくらいで実はかなり特殊な状態だということも学びます。また、乗算と加算が両方定義されているものとしては代数学では環(ring)を学びますが、こちらの定義では加算は交換法則が定義として入っていますが乗算では交換法則は定義として入っていません。同じように乗算において交換法則が成り立つ環は別に「可換環」と呼び、こちらも追加されている性質について学びます。
というのが数学における乗算・加算の交換法則についての正しい理解(のごく一部)となります。(ちなみに四則演算が正しくできるものを体(field)と呼びますが、乗算が可換でないものもあります)
そういえばどうでもいいことのようでどうでもよくないことですが、この「交換法則」という形で正式に学習するのはどうも中学校一年生における「正負の数」のようで、ここで初めて文字で一般の数(この場合は有理数)における交換法則を表すようです。ということはそれまではあくまで算数で言うならば「考えている数ではかける数とかけられる数を交換しても結果は変わらない」という説明になるのでしょうかね。そうしないと数学を突き詰めていく段階で交換法則が成り立たない(可換ではない)演算が出てきたときに受け付けないという現象が現れるでしょうからね。
算数の活動と数学を混ぜると危険
気をつける必要があるのは「算数と数学は別の教科である」だと思います。これを思い込むと交換法則(可換)について「どこで現れたときに間違いとされるのか」についてとんでもない間違いをして逆に子ども達の学習の妨げとなることになりかねないからです。
算数の活動において大切なのは次の3つのプロセスで
- 国語で表された文章などから事象を読み取り数式など数学的な表現に変換でき、どう変換したか説明できること
- 数式など数学的に表現された事象を正しく処理(計算)できること
- 処理された(計算した)結果を正しく言葉(国語)として表現できること
になります。算数の場合、この1.と3.のプロセスがかなり重要だと思います。それは「その事象を理解できたのか、理解できたとしてどう理解したのか」ができないと国語との連携が正しく行えていない、すなわち人として社会などで活動できないということになりかねないからだとと思います。この辺は確証がありませんので推察の語尾とさせてください。ちなみに番号を見ればわかりますが数学としての考え方を行っているのは2.の部分だけです。
ここで大切なのは1.の変換時(つまり数式を立てるなどを行うとき)には数式と国語で正しい対応があるかつ他の児童が数式を見たときに同じ事象を想像できること、ということが必要になります。これができないと交換法則云々の前にコミュニケーションがとれないということになりかねないのではないでしょうか。このことを私がとある方面から学ぶ前に書いた記事にも少しありますが単位をつけずにかけ算の意味を読み取ろうとすると順序に意味があるよね~ということを考えたことがありますがまさにこれだと思います。あとたしかこれは言語によっても順序の意味は異なり、言語として現れる意味の順番の関係で日本語と英語でもかけ算の順序が異なるという話を聞いたことがありますが…。数式に毎回単位をつけると逆に訳がわからなくなりますので国語と連動している状況下においては意味を問うものとしては仕方がないのではないでしょうか。
もちろん、これは「はじめに国語の意味において式を立てる場合のみ」に適応されるものでその後で交換法則で計算することは許容されなければならないでしょう。たとえば
Q. あめが10こありました。あめ1こあたりのおもさは6グラムです。ぜんぶのおもさはなんグラムでしょうか?
A1. 10×6=60 ぜんぶで60gです
A2. 6×10=10×6=60 ぜんぶで60gです
という問いと2つの回答がある場合前者は「10×6の意味が正しく読み取れないため式は×、答えは○」となるでしょうし、後者は「式は○、計算はかけ算の入れ替えはできるので○、答えも○」となるべきでしょう。授業中であれば「10×6はどんな意味ですか?」と聞いて意味が理解できていればまだましですが、単に「出てきた順番でかけ算を書いた」だとこの誤りを正さないとかけ算と足し算が複合した式や割り算で困ることは間違いないとおもいます。後者が×とされるとさすがに凝り固まりすぎでは?といいたくなりますが。(ちなみに小学校の先生に「こういうときにどうするか」という質問をしたことがありますが、その場合も「式を立てるときに逆にすると×にする。式を立てた後であれば○にする」と言っていました)
まあ、×をつけるにしても理由は説明できてほしい
ただ、テストの場合は式を逆に書いたときに「はじめの式は正しく頭の中で立てたが計算の式では交換させてその式が一番はじめに来た」という理由だったのか「出てきた順番で数を書いてかけ算をやった」なのかなどを判断できるように作るのは非常に難しいと思います。その場合間違えに対して長々と理由を書くとその方が児童がいやがるだろうし、○と×が変に混じると何が間違いで何が正しいのか児童に説明するのが逆に難しくなる、というのはありそうな気もするのが難しいところですね。もちろん児童が聞きに来たときにや保護者に対して連絡のような形で書いて説明するときなどではちゃんと理由を説明できないと問題がありますか。
しかしまあ、先頭でも書きましたが定期的にこの話題が出ますよね。なぜなのでしょうかね。
定期的に問題提起される理由は「国語→算数の読み取りの法則が一意に決められていない」からではないでしょうか。
例えば、「あめが10こありました。あめ1こあたりのおもさは6グラムです。ぜんぶのおもさはなんグラムでしょうか?」という日本文に対して、「6グラムのあめが10こある(6×10)」と読み取っても、「10このあめが6グラムずつある(10×6)」と読み取っても日本語の読み取りとしては間違いではないはずです。
後者のように読み取れたとしてもあくまで6×10が正解だとするなら、それはもう文章の読み取りの問題ではなく「どちらを掛ける側に置くか」という算数固有のルールであるように思います。
例えば単位として「グラム」と「個」ならば「個」のほうが“掛ける側”であるからだ…という論理もあるかと思いますが、そういったルールが全単位の組み合わせについて算数では決められているのでしょうか。
「個」と「人」なら「人」? 「匹」と「頭」なら?
ごく一部の単位の例だけが算数の教科書に掲載されているだけの状態で「掛ける単位と掛けられる単位というのが単位の相対的関係として存在する」ということを中途半端に教えるほうが、将来に渡って子どもたちに混乱を与えるように思えてなりません。
それに、「10匹の猿がトカゲを2匹ずつ持っている」といったように単位が同じ場合はどうするのでしょう。
持っている方が「行為の主体」だから「掛ける側」に置くのでしょうか。
では、トカゲが猿に掴まっているのだとしたら?
「猿がトカゲをぶら下げている」と脳内変換して猿を行為の主体にするのでしょうか。
掛け算を「文章の読み取り」として考えるというのは、こういう問題に踏み込むということだと思います。
ちなみに、「10このあめが10グラムずつ」だったときに「10×10」と書くのは、問題文が正しく読み取れているかどうか判断できないので算数の世界では「問題として不適切」とされて一切出題されないのでしょうか。
とおりすがりさん
10個の飴が6gずつある
と書かれていますが
6gの飴が10個ある
とは日本語的に意味が異なりますよ
って事は
通りすがりさんは順序を気にせず学んだから日本語と数字の論理的接続が出来ない人間に育ってしまったという証明ですね